私はこれまで、平等について考えると、頭に「差別を絶対にしない事」と浮かんできていました。
しかし、最近はそもそも差別をなくすことは出来ない。「差別せずに平等なんてクソ食らえだ」と考えるようになって来ました。

まず、できないと思うようになった理由は「人間は差別することで、物を認識できるようになる生き物である」と考えたことです。
例えば、五感なんてまさに物事を差別するための仕組みといっていいでしょう。
こんなことを言うと、「それは差別とは言わず区別というのだ」なんておっしゃる方もいるかも知れません。しかし、そんなごまかしは必要ありません。
結局、区別と差別に差なんてありません。
区別というのは、物事にある差を利用して区分ごとに別けることですから、区別も差別もやってることは同じです。
ただ、二つの言葉はイメージが綺麗かどうかの差で差別されているだけなのです。

そして、「差別せずに平等なんてクソ食らえだ」と考える事になった理由は「平等といって差別しないことによって救われなくなる可能性もあるのだ」という事を考えたからです。
例えば、資格試験というものは合格する条件が皆同じであるという理由で平等と言えます(これは機会の平等であり、自民党や民主党などの自由主義者が目指す平等はコレだと思われます)。
しかし、平等にした結果、条件を少しでも満たせなかった場合には、皆平等に振り落とされてしまうのです。
機会の平等を目指すということは、この「その条件下で失敗したら平等に振り落とされる社会」を創り上げることとなります。
この機会の平等が「絶対に差別をしない」平等なのです。
つまり機会の平等は、私には「条件に依る区別という衣を着ることによって、差別している事実を忘れさせてしまう事」という考え方に思えるのです。

コレを補うのは「セーフティーネット」であり、生活保護がそれに当たるでしょう。
しかし生活保護などの「セーフティーネット」は、機会の平等とは正反対の性質で作られているように思われます。
そもそも「セーフティーネット」というのも平等を目指して作られている仕組みのように見えます。機会の平等での差別によって振り落とされた人々を救うための仕組みなはずです。(この考え方は結果の平等だと思います。共産党とか社民党はこちらの平等を求めているのではないでしょうか)
しかし、生活保護なども実は機会の平等的な思想によって、組み替えられていこうとしています。
例えば、就労訓練を理由なく休んではいけないという条件を付け足してみたり、「ある程度の期間で打ち切りにすべきだ」なんて意見も強くなっています。
これらの意見は「自立するという結果の平等」を求めているのかもしれませんが、実際は「労働させる、自立に向かわせる、という機会の平等」を求めているだけだと思います。
つまり「自立できない人間は死ね」と言っていることに近いと私は思います。

話はそれましたが、結局私には、今ある平等の概念は「私は差別していないと思い込むために利用される概念」にしか思えないのです。
では、どういう事がいいのか。
差別はなくせない。これは私が考えていることです。同時に「差別が悪である」私はコレを否定してはいけないとも思っているのです。
つまり必要悪である、という考え方です。
しかしこの「必要悪」という言葉のイメージが曲者で、必要悪といっておけば、物事はそのままで、悪丸出しのまま存在していい、というニュアンスで伝わってしまうことが多いように思います。しかしそうではありません。
悪いことということを認識して、行動をしないといけないのです。
悪いことをしている→謝ればいい。なんて生ぬるい話ではありません。
今回の悪いことは差別です。
「差別しちゃったごめん」では済まないのです。その抱いた差別は永遠に自分の頭、自分の心、自分の身体感覚には残り続けるのです。
差別したら、その差別した対象に対して貢献し続けることが必要だと私は思っています。
相手に差別している事を自分で認識して、自分を悪だと認識して、せめてこれで許してくれと、相手に貢献し続ける。この姿勢が必要なのではないか?と思います。
寄付、義捐金、募金、なんてものも、結局は差別した結果、その差別した対象に特別に貢献する、という性質のものでしょう。
つまり、必要だからといって悪は悪なのです。むしろ悪とわかっているから必要なのです。で、その必要悪の一つが差別なのです。
しかし、上でも言ったように「必要悪といっておけば、物事はそのままで、悪丸出しのまま存在していい」もしくは「悪は悪だから絶対に即全部なくす」なんて勘違いする輩が出てくることで、この理想は常に脅かされます。
この話は原発の話にもつながって来るのではないでしょうか?
原発は様々な問題を抱えている、しかしエネルギー的には大切だ、だから必要悪だ。こういう話だったのではないでしょうか?しかし、この「必要悪だ」の部分がどうも忘れられていった。だから悪のまま突き進んでしまって、結局事故を起こしてしまったり、捨てる場所もリサイクル方法も確立しないまま、大量に使用済み核燃料という危険物が量産されてしまった。存在していたのは安全神話ではなく『必要悪という認識の欠如』だったのではないでしょうか?
私は、世の中は必要悪に満ちていて、人間という存在、少なくとも自分という存在も悪だとおもうときもあります。しかし、開き直るでもなく、自分が悪だと一旦認め、それから如何にして善に近づくか、コレが様々なことを考えるときに必要な姿勢なんだと思います。

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